2009年(平成21) 1月8日 No.番外
祗園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
娑羅双樹の花の色
盛者必衰の理をあらは(わ)す…
今年初めての番外編は、静岡県・妙善寺住職 長島宗深さんの法話をご紹介します。
あるお寺で、法話の出番待ちをしていた時のことです。お話を始める前、私はいつも坐禅をして心を調えながら待つのですが、ふと気づいて袂(たもと)から
数珠を取り出した時、何かがバラバラと畳の上に転がり出ました。
「ん? 何だろう」
拾い上げるとそれは何と、数珠の玉でした。はっとして手元の数珠を見ると、紐の端がぶらぶらしています。袂に手を入れると、外れた玉がいくつも残って
いました。数珠が切れたのです。
「ああ、切れたんだ」
この時私は、やけに自分の心が落ち着いているのに小さな驚きを覚えました。ふだんだったら大騒ぎなのです。「困った!代わりの数珠は持っていない…。ど
うしよう」とか、「なんて縁起が悪いんだ。悪いことの前ぶれかな」とか、「いやいや、数珠が私の災難の身代わりになってくれたに違いない」とか、あれこれ
理由をつけて自分を納得させようとするのですが、この日は少し違いました。坐禅の最中だったからでしょう。
私はあちこちに散らばった虎目(とらめ)の数珠玉を一つ一つ拾い上げながら、仏教の最も基本となる三法印の一つ「諸行無常(しょぎょ
うむじょう)」の教えを思い浮かべていました。「すべてのものは移り行く、変わり行くのだから、この紐が切れるのも自然なことだな」と。
「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声、諸行無常(しょぎょうむじょう)の響きあり」とは『平家物語』の冒頭の一節として広く知られた言葉ですが、
「盛者必衰(しょうじゃひっすい)の理」「驕(おご)れる者も久しからず」「猛(たけ)き者もついには滅びぬ
」と、滅びゆく姿のはかなさの代名詞のように使われています。また、日本人の美意識の代表とされるものに、桜の花や紅葉、雪などがありますが、これらはす
べて、はかないから美しいのであり、そこにはこの仏教の無常観が流れているといわれます。
この「無常」。往々にして私たちは一面だけでとらえがちなのです。それは、雪が溶けたり、紅葉や桜が散ったりといった、滅びの場面で
だけ、無常観をいだきやすいということです。
でも実は、これだけではないのです。もっと咲いていてほしいのに、いずれ散ってしまうのはもちろん無常です。ところが、寒々とした木
々の早春の枝先が、小さな蕾を結ぶのも無常。蕾が少しずつふくらんでいくのも無常。そして誇らしげに花開くのも無常。
人間で言えば年老いるだけが無常ではなく、このまま、かわいいままでいてほしいと願うようなあどけない幼子が、成長して少年になり、
やがて青年になっていく。これも無常。
楽しいこと、いいことはいつまでも続かないけれど、逆に、どんなにつらく苦しいことも、ずっとそのままではいない、やがて必ず苦しみ
悲しみから立ち直っていく。これも無常。すべてのものは変化してやまないという真実が、「無常の理」なのです。そして、この諸行無常の世にありながら「い
つまでも変わらない」ことにこだわりすぎる私たちの心が「苦しみ」を生む一つの大きな原因だと、お釈迦さまは説かれているのです。
(市会議員・中島健一)
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