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2008年(平成20)  9月25日 議会レポのロゴ No.406


※芦 屋のはなし
 まだ定例議会中。本来なら、話題の病院の事を詳しくお知らせするべきかと思いますが、市長の答弁や聞こえてくる話、はあ?と目 を疑うようなブログや、政争の具にと目論む人も。

 ここは少々間を置いて、芦屋のはなしでも。

 芦屋は、昭和15年に173番目の市として公布されました。普通は、村から町へ、町から市へとなるものですが、芦屋市は精道村からの市政。 立地や環境 など好条件にも恵まれて一躍市政へと変わっていったのです。 

 手元にある議会便覧にはこうあります。

 「明治38年阪神電鉄本線の開通に伴う芦屋・打出2駅の設置をはじめ、 大正2年には国鉄東海道線芦屋駅が設置され、大阪・神戸の郊外として優れた立地と環境が注目されるにつれ、芦屋川扇状地を中心とした別荘地・住宅化が進み ました」

 ちなみに阪急の芦屋川駅は大正9年に設置されました。
 さて、村から市政になったのは芦屋が全国で初めてなのかと調べてみると、残念ながら4番目でした。
 ちなみに5番目までを見てみると

  ▽1902年4月1日
      東彼杵郡 佐世保村 → 長崎県 佐世保市
  ▽1921年11月1日
      厚狭郡 宇部村 → 山口県 宇部市
  ▽1936年4月1日
      諏訪郡 平野村 → 長野県 岡谷市
  ▽1940年11月10日
      武庫郡 精道村 → 兵庫県 芦屋市
  ▽2002年4月1日
      島尻郡豊見城村 → 沖縄県 豊見城市

となっています。ちなみにまだ全国ではこの5事例しかありません。

※沖縄では戦後、豊見城市以外に4例あるようですが、米軍占領下ですので 数に入れてません。

※なぜ芦屋 市?
 この5事例をよくよく見ると、岡谷市以外の3市は村の名前をそのまま市でも使用しています。では、なぜ芦屋は精道市ではなくて 芦屋市になったのでしょうか。

 ここでまたおもしろい資料にたどり着きました。
 もともと精道村は、4つの村、芦屋村・打出村・三条村・津知村が、明治22年の町村制施行で1つの村になったものです。この辺はご存知の人も多いと思い ます。その時村名は、当時4ヶ村の小学校の名前をつけたのですが、なぜそうなったかについては、その資料にはこうありました。

  ▽精道村が出来る直前の戸数
      打出村 252戸  芦屋村 247戸
      三条村  37戸  津知村  18戸

 明治22年に村の名前を小学校の校名を取って精道村としたのは、「芦屋村か打出村か」でモメるとややこしいから、だったかも知れな い。
とのこと。いやいやよくある話です。

※ 詳しくは、「ここは芦屋の打出」をご覧下さい。
  http://www.trans-usa.com/ashiya/

 それで、市の名前にもつながるのですが、その資料には…

▽市制が敷かれたとき、打出市じゃなく芦屋市になってしまった事情を悔し そうに話してくれた古老の顔を思い出す。嘘だか本当だか知らないけど、古老は「打出村の代表の一人が席を外してるスキに多数決で決めてしまいおって…」っ て曰ってた。         


 いやいや、今も昔も変わらないというか…
 そこには住居表示制度が変わり、町名から「打出」が消えていったのも旧芦屋村の陰謀では、とまでありました。

 事実はどうあれ、住んでいるまちの事を知る事は、とても楽しいことです。ちなみに芦屋村と打出村の村境がどこにあったかも、この資料にありました。

▽ 打出と芦屋との境界の川は宮川でも大溝川でもなく、「念仏川」だ。


 「念仏川」

 
市内にそんな川があったのか?
 気になった人は、ぜひ楽しい散策へ出てみてはいかがでしょうか。


(市会議員・中島健一)

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