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2011年(平23)9月 一般質問



○議長(畑中俊彦君) 次に、「私たちのまち芦屋」の意識を持つために、本件について、中島健一議員の発言をお許しいたします。
 15番、中島(健)議員。

◆15番(中島健一君) =登壇=通告に沿って、一般質問を行います。
 今回は、「私たちのまち芦屋」の意識を持つために3点、市民憲章と安全都市宣言、市民の歌についてお聞きしたいと思います。

 芦屋市は昭和15年に全国で173番目、県下では7番目、加えて言えば、村から単独で市に昇格した全国で4番目の市です。明治憲法下で村から市になったのは4市のみで、米軍統治下の沖縄も含めて、現在まで10の自治体しかありません。
 その芦屋市も、現在、知名度からいえば全国で知らない人のほうが少ないだろうと言えるぐらいよく知られた自治体になっています。

 そんな芦屋市に愛着を持ち、「私たちのまち芦屋」という意識を持っている人が多いことに、私自身うれしく思うと同時に、市民の一人として誇りを持っているところです。
 しかし、その「私たちのまち芦屋」という意識は、ともすれば個人の都合や打算、その他もろもろの理由によって薄れてしまうことがあります。その結果とし てあらわれるのは、端的な例を挙げればごみのポイ捨てでしょうか。モラルやマナーは「私たちのまち芦屋」の意識があれば必然的に向上していくものだと思う ところです。その意識向上をしていく大切なものの一つには、私は芦屋市民憲章や市民の歌があると思います。

 昨年、市制施行70周年を迎えました。70年間の歩みの中にはさまざまな歴史があります。その歴史を現在に、そして未来に向け、つなげていくことはとて も重要なことです。そして、その歴史を知り、「私たちのまち芦屋」の意識を持ってもらうためにも、行政から絶えず働きかけていく、これがとても大切なこと ではないでしょうか。私は、行政が働きかけ、伝えていく、その大切なものに市民憲章や市民の歌があると考えるところです。

 せっかくですので、芦屋の歴史を少しひもといていきたいと思います。
 芦屋に市制が施行された1940年、昭和15年は、日独伊三国同盟、大政翼賛会が成立した年でもあります。チャーチルがイギリス首相に就任、フランスはドイツに降伏、イタリアが参戦した年でもありました。
 その年の12月には、市立の診療所が竣工、また、初めての市会議員選挙が行われています。

 1942年から空襲警報が発令されるようになり、1945年5月11日に初めての空襲がありました。大型爆弾42個が投下され、死亡39人、全半壊175戸、罹災者962人。
 その後、終戦までに何度か空襲があり、焼夷弾は約3,200個、爆弾は55個落とされ、罹災家屋は総戸数の40%に及び、学校、校舎は80%が失われてしまいました。それから復興していくのには大変な苦労があったかと思います。

 戦後、1946年(昭和21年)、診療所は市民病院となりました。翌年の昭和22年、消防署が竣工しました。また、精道小学校に給食調理室が建設され、学校給食が始まりました。
 芦屋では、戦前の昭和8年から既に学校弁当、学校食事という完全給食が行われていました。戦後2年から始まった学校給食も完全給食になるには後4年待たなければなりませんでしたが、他市に先駆けて行われ、そして、学校給食法はその2年後に制定されたのです。

 後日、市は、それは学校給食が及ぼした功績を国家が認めたことにほかなりませんと高く評価しています。この姿勢と精神を中学校給食にも生かしてほしいなとも思うところです。
 1948年(昭和23年)には市議会の事務局が創設され、市営の海水浴場が開設しました。この年には、富田砕花さんが兵庫県文化賞を受賞しています。

 この翌年、1949年2月19日、前年から復興に向け市民を一丸にする歌をと募集していた芦屋市民の歌の発表音楽会が仏教会館で開催されました。この芦屋市民の歌については後ほど質問したいと思います。

 同じく1949年には、市営公衆場が開設し、1950年には市制10周年記念。これを記念して芦屋音頭などがつくられています。
 そして、1951年、憲法第95条により芦屋国際文化住宅都市建設法の住民投票が実施され、77%の賛成多数で成立。その後、市長直属機関として芦屋国際文化住宅都市建設推進本部が設置されました。

 1952年(昭和27年)には、市立芦屋病院が現在の場所で診療を開始し、無料バスが市内を巡回し始めました。当時の資料を見ると、本当に市内を一巡しているバスが無料で走っていたようです。
 また、市議会においても年6回、奇数月にあった市議会は年4回というふうになったのもこの年でした。当時は、市にゆかりのある在原業平をしのぶ業平祭り、業平祭も毎年盛大に行われていたようです。

 1957年(昭和32年)には、芦屋市原水爆禁止協議会が設立され、その大会には約2,000人の人が集まり、会長に市長が選ばれました。その当時の市 長は、今では考えられませんが、広く新しい見聞を市政にと、40日間の世界一周視察に出かけたりしています。現在、動物のいなくなった通称お猿公園が開設 された当時の新聞では、子供と動物の楽園とまで表現されています。

 小学校の修学旅行として伊勢神宮に行ったり、地域ごとの氏神中心の祭礼と教育委員会主催の文化祭りなどを、郷土を愛し、郷土の発展を祈る全市的な一大祭 典として芦屋まつり、現在の秋まつりが始まったのもこのころです。当時は、約1カ月にわたり芦屋まつりの行事が行われました。また、芦屋まつりの式典の日 には市役所、学校、銀行も休日となりました。ちなみにこのころは、昨年質問でも取り上げましたが、11月10日の市制施行日は市役所も学校も休みでした。

 挙げればキリがありませんが、そんな流れの中、市民憲章、市民の申し合わせを制定する話が出てきたわけです。きっかけは、芦屋市をもっと美しく平和なまちにするために市民の申し合わせ事項をつくっては、という市民の声から始まりました。

 当時の市長も、長期間の視察で外国都市が市民の公徳心、モラルやマナーによってどこもいつも美しい環境が保たれていたことから、芦屋市もそうした市民の 申し合わせができればと、みずから発起人になり、芦屋市市民憲章発起人会が数回にわたって開かれました。そして、憲章の性格上、市民の総意が盛られる必要 があることから、市内の各種団体の代表、学識経験者など55人による市民憲章制定委員会を設置。14人の起草委員は連日、長時間の検討をして、また原案を 日刊紙に折り込んだり、また全世帯に配布したり、市民の意見を聞き、修正を加えるなど、ようやく制定委員会で満場一致を得ることになりました。
 そして、1964年(昭和39年)の憲法記念日の市民憲章制定式の日に即日、全市に告示されたのです。

 少し長くなりますが、芦屋市民憲章をここで朗読したいと思います。

 芦屋市民憲章。「わたくしたち芦屋市民は、国際文化住宅都市の市民である誇りをもって、わたくしたちの芦屋をより美しく明るく豊かにするために、市民の守るべき規範として、ここに憲章を定めます。
 この憲章は、わたくしたち芦屋市民のひとりひとりが、その本分を守り、他人に迷惑をかけないという自覚に立って互いに反省し、各自が行動を規律しようとするものであります。
 1.わたくしたち芦屋市民は、文化の高い教養豊かなまちをきずきましょう。
 広く国内外の長所を取り入れ、教育、科学、文化の水準の高いまちをつくる。文化財をたいせつにする。国際的友情をたかめ、文化交流をいっそう盛んにする。芦屋を訪れる人々には親切にし、外国人も安住できるまちにする、など。
 1.わたくしたち芦屋市民は、自然の風物を愛し、まちを緑と花でつつみましょう。
 海岸・河川・山地など自然のものをたいせつにする。家庭にもまちにも樹木や草花を育てるようにする。道路・公園・その他、公共の施設をたいせつにする。まちの調和をみだす広告・看板などをなくして都市の美観を保つようにする、など。
 1.わたくしたち芦屋市民は、青少年の夢と希望をすこやかに育てましょう。
 よい環境を与え、健康で情操豊かな心身を育てる。善意と愛情をもって、その力と才能をのばすようにする。社会の一員として自主的に責任を果たすようにする、など。
 1.わたくしたち芦屋市民は、健康で明るく幸福なまちをつくりましょう。
 国旗を大切にし、外国の国旗も尊重する。老人を敬愛し、長寿を祝福する。幼児の健康を守り、正しくしつけるようにする。ふしあわせな人々にあたたかくし、隣近所は仲よくする、など。
 1.わたくしたち芦屋市民は、災害や公害のない清潔で安全なまちにしましょう。
 災害の起こらぬようお互いに協力し、騒音・ばい煙・臭気など公害のないようにする。道路・公園・広場などをむやみに私用に使わないようにする。みぞ・河川・あき地などにごみのない、か・はえなどのいない清潔なまちにする、など。」
 こういうふうになっています。

 私はこの芦屋市民憲章は、市民の生活規範であると同時に行政のあらゆる政策の指標だと思います。

 そこで質問したいのですが、前回の質問では、この市民憲章というのは芦屋市民の宝だと思うということに始まり、この市民憲章を忘れていかないように推進協議会をもう一度つくり直して、改めて市民の中にこの市民憲章を生かしていくべきだと思いますと質問しました。

 答弁では、「現在は、北館広場及び北館1階に設置しておりますレリーフと市ホームページで市民憲章を公表しておりますが、今後も、パンフレット等に掲載 することにより、芦屋市民としての誇りと守るべき規範について周知に努めてまいります。」また、市民憲章の周知について、推進委員会を立ち上げて住民に対 して周知に努めなさいということにつきましては、「先ほど市長が御答弁させていただきました、70周年の事業につきまして実行委員会を立ち上げて検討して まいりましたので、その中でまた御意見もお聞きして対応してまいりたいと思っております」というふうな答弁がありました。

 それから約1年近くたとうとしているんですが、どうなっているのか。70周年で市民憲章にも光を当てたのか、周知にどう努めてきているのか、推進協議会の立ち上げはしないのか、この点をお聞きしたいと思います。

 次に、安心都市宣言についてですが、芦屋市は市民憲章をつくる前の昭和37年に安全都市宣言というのをしています。芦屋市にはほかに都市宣言として、庭 園都市宣言、非核平和都市宣言があります。庭園都市宣言についてはアクションプログラムなどが行われており、非核平和都市宣言では市民団体が毎年集いを開 き、ことしは市長もあいさつをされるようです。

 ところが、安全都市宣言はどうでしょうか。安全都市宣言、その精神は現在にも引き継がれていると思いますが、その宣言文自体は今の状況にそぐわなくなっ ているとも思います。今後の自然災害等への備えなども含め、生活安全都市宣言として再生させていくべきではないでしょうか。

 次に、芦屋市民の歌についてお尋ねいたします。

 以前、市長は、現在のところ市歌、市の歌として制定されたものはございませんと答弁されました。それはおかしいだろうと私は後日指摘をしたところです。
 先ほど、市の歴史の流れの中で紹介しましたが、1948年(昭和23年)に戦後復興の中、市民を一丸にする歌をと、市が予算を組み募集していた芦屋市民 の歌、同じ年に兵庫県文化賞を受賞した富田砕花さんが、応募して集まった歌の選定に参加され、選定された市民の歌の発表音楽会が1949年2月19日に仏 教会館で開催されました。

 当時の富田砕花さんが残した芦屋市民の歌選後感というのがありますが、これは目録はあるんですが市に所蔵がないようなので残念ながらまだ見ることはでき ませんでしたが、この芦屋市民の歌の選後感と富田さんが入選作を改訂した芦屋市民の歌は、教育委員会発行の目録の中に、県、市、町歌の項目の欄にほかの川 西市や伊丹市や豊岡市の歌などの中に掲載されています。

 きょうは資料として、芦屋市民の歌を皆さんにもお配りしておりますけれども、富田砕花さんは皆さんもよく御存じの方かと思いますが、作詞された本間一咲 さんなんですが、この方は、新潟県の新保村、今の佐渡市にお生まれの方です。近代の戦前から戦後の歌をつくっておられた方のようです。この芦屋市民の歌の ほかにもたくさんの作詞をされておられます。

 赤十字をたたえる歌であるとか、あるいは、満州開拓の歌、決意一番、この満州開拓の歌や決意一番は中山晋平さん、これは皆さんも御存じかと思いますが、 多くの傑作といわれる童謡や流行歌、新民謡などを残した方です。また、樺太の歌では山田耕筰さんが作曲をされています。戦前ですけれども、世界音楽全集日 本童謡歌曲集に収録されるような歌も作詞されております。また、校歌も数多くつくられているようです。これは、津市の修成小学校の校歌もつくられているん ですけれども、ここだけではないんですが、この歌は服部正さん、ラジオ体操第一をつくられた作曲家の方なんですけれども、この人が作曲されたようです。ま た、市や町や村の歌もつくられているようです。ちょっと私が詳しく見れたのは足寄町、北海道ですね。ここで町民歌も作詞されているようです。

 また、作曲の大沢寿人さん、この方は兵庫県神戸市生まれの作曲家で、指揮者でもあります。ボストン交響楽団で日本人として初めて指揮をした方でもありま す。その後、パリにも留学し、自作の交響曲や協奏曲を発表して、全ヨーロッパにラジオ放送されるなど注目を集めた人で、帰国してからは、関西交響楽団や神 戸女学院で教授として教鞭を執る傍ら、映画や放送にも幅広くかかわっていた人です。

 この方も数多くの作曲をされているんですが、幾つか挙げていきますと、加古川中学校校歌や赤穂の東中学校校歌、尼崎市立の武庫中学校とか、報徳学園、あるいは西宮市立浜脇小学校、関西学院高校、大阪市民の歌、大阪市消防局の歌、こんなふうに作曲に携わっている人です。

 また、伊丹市歌というのも大沢寿人さんが作曲されてるんですけれども、伊丹市は、この伊丹市歌をつくる過程、つくったのは昭和25年、実は芦屋市が先に 芦屋市民の歌をつくったもので、伊丹市もこれをまねたようです。伊丹市は昭和25年市制施行10周年を記念して、伊丹市歌の歌詞を公募して、74通の応募 の中から審査の結果、歌詞を選んで、富田砕花さんに、やっぱり補作をしてもらって、この関西交響楽団の大沢寿人さんが作曲をされたそうです。

 この芦屋市民の歌、議員さんの中でも歌える人が何人かいるようなんですけれども、メロディーは、芦屋の市民活動、NPOの人たちがCDつくって貸し出し もしてるみたいなので、ぜひ、そちらのほうもまた皆さん聞いていただきたいと思いますが、せっかくですので、歌詞を朗読したいと思います。

 「芦屋市民の歌」
   海風に映ゆる山 青雲のひたす街 あしや いにしえびとの歌さながら
   心揺るばかり美しく わが汗の日日たのし あしや われらが芦屋
   国道に光るかぜ 潮騒のうるむ街 あしや いろとりどりの花ちりばめ
   心ゆくばかり匂い立てと わが庭に培わん あしや われらが芦屋
   いさり火にひらく窓 星かげのなごむ街 あしや 新潮の香のいぶくところ
   心澄むばかりまさやけく わが夢の夜夜たのし あしや われらが芦屋

 とってもいい歌だと思うんですね。この芦屋市民の歌、実はつくられた当初、事あるごとに歌われて、学校でもちゃんと芦屋市民の歌として授業の中で教えら れていたのです。市民の歌というのは私は市の歌、市歌そのものだと思います。市制施行50周年でもこの歌が式典で歌われたのは昨年にも紹介したところで す。ところが、今では歌われなくなって、取り上げられなくもなっています。市制施行70周年においても光が当てられることはありませんでした。本当に残念 です。

 受け継がれていないのは、これはひとえに、私は行政側の責任ではないかなと思います。歴史と今をつなぐためには、きちんと伝えることは伝えていかなけれ ばなりません。私たちのまち芦屋を意識するためにも貴重なものです。そのためにも機会あるごとに取り上げるよう努力すべきだと考えるところです。

 当面は、芦屋市民の歌の価値を認め、ホームページなどに掲載していくべきではないでしょうか。また、教育委員会においては学校の副教材である「わたしたちのまち芦屋」に掲載して教えていくべきではないでしょうか。このことについて質問をいたします。
 1回目の質問を終わります。

○議長(畑中俊彦君) 答弁を求めます。
 山中市長。

◎市長(山中健君) =登壇=中島健一議員の御質問にお答えいたします。
 初めに、市民憲章の周知につきましては、昨年の市制施行70周年の記念式典において市民憲章を記載した式次第を作成し、式典、出席者の皆様に配布するほか、記念事業として作成した市民便利帳にも掲載し、全戸配布いたしております。

 市民向けにはホームページや北館広場、北館1階及び男女共同参画センターに掲示するとともに、市勢要覧、第2次芦屋市人権教育・人権啓発に関する総合推 進指針、都市計画マスタープラン、芦屋市立上宮川文化センター要覧、芦屋市の保健事業概要にも掲載し、機会あるごとに周知に努めているところです。

 また、職員には芦屋市情報ネットワークにログインしたときに、パソコンの初期画面で定期的に表示しており、日常から認識するよう努めているところです。
 このように、市民憲章につきましては一定の継続的な取り組みを行っておりますので、現在のところ、推進協議会の立ち上げにつきましては考えておりません。

 次に、安全都市宣言につきましては、市民憲章がその意義として継続性、総合性、有効性を備え、市民参加のまちづくりの総合的な根拠としての役割を持つこ とに対して、都市宣言はそのときどきの社会状況を反映した特定の市政を都市の内外に表明するという意味合いのものでございます。

 安全都市宣言の宣言文自体は当時の時代背景や社会状況等を反映して起草されたものでございますので、その見直しについては考えておりません。
 次に、芦屋市民の歌につきましては、昨年の9月議会でも山村悦三議員からぜひ芦屋市民の歌の復活をという御要望もございましたが、阪神・淡路大震災以 降、復興への願いを込めてつくられた「このまちが好き」が市民の皆様や子供たちにも大変親しまれていることから、「このまちが好き」を芦屋市の愛唱歌とし てより定着させていきたいと思っておりますので、芦屋市民の歌のホームページなどへの掲載は考えておりません。
 その他の御質問につきましては、教育長からお答えいたします。

○議長(畑中俊彦君) 教育長。

◎教育長(福岡憲助君) =登壇=中島健一議員の御質問にお答えいたします。
 芦屋市民の歌を「わたしたちのまち芦屋」へ掲載し、子供たちに教えていくことにつきましては、副読本「わたしたちのまち芦屋」は小学校3、4年生が地域 社会の一員としての自覚を持つようにすることを目的に、市内の自然、環境、産業、文化、歴史等を学ぶために作成しております。

 その内容につきましては、学習指導要領において、小学校3、4年生の社会科で地域の文化を学ぶポイントの一つとして、地域の人々が受け継いできた文化財や年中行事から先人の働きを知るという項目が挙げられておりますので、これに沿って編集、作成を行っております。
 したがいまして、教育委員会といたしましては、芦屋市民の歌を副読本へ掲載することは考えておりません。
 以上でございます。

○議長(畑中俊彦君) 中島(健)議員。

◆15番(中島健一君) 2回目の質問をしますが、非常に残念ですね。正直、何でというふうに聞きたいんですけど、ホームページに載せるぐらいいいじゃな いですか。歴史でしょう、芦屋市の。それが何でホームページに載せるのもあかんのですかね。順を追って質問をしていきたいと思いますが。
 安全都市宣言は、その時代背景があって特定の声明をしたもので、つくりかえていくいうのは考えていないという御答弁でした。

 確かに、安全都市宣言はその当時は全国各地で都市宣言されてるんですね。ただ、ほかの都市では交通安全都市宣言という形をとってるんですよ。
 というのは、その当時は車がふえて交通事故が非常にふえてきた。芦屋市においても、この安全都市宣言が揚げられた昭和36年の前の5年間を比べてみる と、昭和31年が市内で100人ほどだった交通事故が、都市宣言を揚げるときには7倍の695人まで交通事故がふえてるんですね。だから、そういった背景 がつくられてきたというのはよくわかるんですけれども、この安全都市宣言、芦屋市はちょっとほかの都市と違ってて、交通安全都市宣言とはしなかったんで す。

 それはなぜかと言うと、交通事故に限らず、そのほかの不時の災禍の犠牲者、つまり防災とか、そういういろんなものも含めて安全都市宣言をしようということで、この安全都市宣言がされてるんですね。

 ですから、この安全都市宣言というのは、今にも脈々と受け継がれてきているとは私も思います。だからこそ、当時の文言のままでは今の市民にはこの都市宣 言を見ても、何を言ってるのかよくわからないし、この間、阪神大震災、3月11日の大震災、いろいろありましたから、そういうことも含めて防災の観点もよ り色濃くした都市宣言をつくっていったほうが私はいいのではないかという観点から質問させていただきました。

 当時の声明だからつくりかえることはできないということは私はないと思いますので、その点、再度御答弁をいただきたいと思います。

 憲章については、いろんな印刷物で紹介してるという御答弁もありましたし、それはそれで続けていっていただきたいと思います。
 昨年の質問でも紹介しましたが、この市民憲章は私たち芦屋を市民が一丸となってつくっていこうという、そういった思いからつくられたものですから、つく られてから20年間、ずっと芦屋市はこの推進協議会とか、あるいは市の広報、市民に啓発を重ねてきたとこなんですね。5年、10年、15年、20年という 節目には特集も組んでやってきてるとこなんです。ところが、それから少しずつ薄れていってきてしまってると私は感じるところです。

 今、市のつくっている印刷物とかで載せてますよというふうに言ってますけども、やはり、私は芦屋市が発行するすべての印刷物には、やはり紹介していくべ きだろうと。表紙の裏には必ず市民憲章を載せる、そういったぐらいの気持ちが必要なのではないかなというふうに思います。

 芦屋市のコンピューター、ログインするときに市民憲章が出てるというのは私はちょっと知らなかったんで、それは初耳で、いいことやってるなと思いますの で、それも引き続きやっていってと思いますが、先ほど言ったパンフレット、各種パンフレットに必ず載せていってはいかがかなというふうに思いますし、あ と、学校にもね、青少年センターや図書館とかにも市民憲章というのは、やはり掲げておくべきではないでしょうか。

 それと、パソコンへのログインのときだけではなくて、市役所の庁舎のいろんな箇所に掲げていくべきじゃないかなと思います。私は、まず第一には市民の皆 さんが市役所に来たときに、いろいろ待合で待つところの場所にそういった市民憲章を掲示しておくことも啓発の一つとなると思いますし、やはり、その辺は工 夫することによっていろんな方法は可能だと思います。そのこともあわせて今後検討いただけないかなと思います。

 そういったことを推進していく母体として、私は推進協議会はやはり必要だと思うんですね。先ほどの答弁では、推進協議会は考えていないということなんですけれども、なぜ考えていないのか、そのあたりをお聞かせいただけますか。

 私は、市内にいろんな団体があるし、いろんな協議会、推進委員会とかあると思いますけれども、その大本になるのは、私は市民憲章だと思うんですね。その 市民憲章を推進している協議会をつくって、そういった各種団体の下に入って一緒に活動を進めていく、そういったことも考えていっていいのではないかなと思 いますので、再度、市民憲章推進協議会、なぜ考えていないのか、もう少し詳しく教えていただきたいと思います。

 あと、市民の歌については、先に教育委員会のほうからお尋ねしますけども、考えていませんということだったんですが、芦屋のことを教えていくに当たっ て、やっぱり市民の自覚を小さいころから持っていただかなければいけないのかな、それを教えていかなければいけないのかなと思います。

 芦屋市の成り立ちとか、市の旗とか市の花とか市の木とか、そういったことは、また市民憲章も教えてるんですから、市民の歌もあわせて教えていくべきではないかなと思います。
 これは、小学校にとどまるものではなくて、中学校の中でも、やはり機会あるごとに教えていく必要が私はあると思うんですけれども、再度お聞かせいただきたいと思います。

 ホームページへの市民の歌、掲載を考えていないというふうに一番冒頭に、何でですかというふうに聞いたんですけど、何でですか。あきませんか、ホームページ掲載も。
 市民の歌をつくられた本間一咲さんが作詞された足寄町では、やはり町民の歌を作詞していただいてたんですけれども、それがみんなに忘れられていってし まったということがあったみたいなんですね。「町民歌、知っていますか」ということで、設立25年に向けて音楽会が開かれたようです。

 ちょっと記事を紹介しますと、これは2002年のことなんですけれども、足寄町町民歌は足寄村と西足寄町が合併した1955年から10年が経過した 1965年に記念事業の一環でつくられたそうです。作詞は、先ほど言った芦屋市民の歌をつくっていただいた本間一咲さん、阿寒のふもとに位置する足寄町の 礎となった開拓の精神と勤労のすばらしさを朗々と詠んだ歌だと。しかし、町民へのなじみが薄い、これまでも成人式や各種式典などで町民歌を歌う機会はあっ たが、知っている人はほとんどいない。役場や先生たちでもまともに歌える人がないほどの状況だったということです。

 でも、やはりこの町民の歌があることによって町民の意識を一つにする、まちに思いをはせてもらう、そういう意味から町民歌の披露に行き着いたということで、大々的にやったそうです。

 別に、私は芦屋市民の歌をいろんな場所で歌ってほしいなと思いますけれども、今回の質問ではホームページぐらい掲載したらどうかと、歴史の一環ですから それしか質問してないんですよ。そのホームページの掲載もできないというのは何か理由があるんですか。容量が少ないんですか、そんなことないでしょう。

 先ほど質問の中で、市民活動センターがCD出してますね、「このまちが好きだ」と「芦屋市民の歌」CDに出して、興味があったら聞いてくださいというの をやってるんですけれども、市民活動センター任せでなくて芦屋市自身がするべきでしょう、芦屋市の歴史なんですから。いかがですか、再度ホームページに掲 載ぐらいしてくださいと質問させていただきますが、御答弁お願いします。

 ちなみに、芦屋市民の歌をつくられた大沢寿人さんなんですけれども、最近、すごく注目を浴びてる人だというのを私も調べて初めて知ったんですが、 2005年の生誕100周年ということで大々的な演奏会とか開かれたようで、ところが現役のときにはなかなか評価されないで、今、神戸女学院が中心になっ て、楽譜とか譜面とかいろいろなものを集めているようです。

 ちょっと紹介しますと、大沢寿人さんは戦前、パリやボストンに留学して演奏会で自作を指揮するなど活躍して、戦後は神戸女学院に勤めたと先ほども御紹介 しましたが、40代の若さで亡くなってるんですね。作風が時代を先取りしすぎたことなどから、その後、歴史の中でも忘れられていたそうなんです。その見直 しが2004年、2005年あたりからされてるようなんですね。

 今、大学のほうでは楽譜の目録を作成したりしているんですけれども、欠落した楽譜とかわからない譜面とかがたくさんあるそうなんです。ですから、私はこ れもいい機会だと思うんで、神戸女学院大学のほうに大沢寿人さんは芦屋市民の歌を作曲されてますよ。もし、楽譜がなかったら芦屋市にはそれがありますよ。 もう既に知ってるんだったら、当時の歴史というか、芦屋市民の歌作成にどのようにかかわってきたかということを知る一つのきっかけになるかもしれませんか ら、いっそコンタクトをとってもいいんじゃないかなというふうにも思いますので、その辺いかがかなということでお尋ねしたいと思います。

 2回目の質問を終わりますが、二度目の答弁のときに、ホームページに掲載するというぐらい、答弁お願いします。2回目を終わりにします。

○議長(畑中俊彦君) 都市環境部長。

◎都市環境部長(北田恵三君) 私のほうからは、安全都市宣言につきまして御答弁をさせていただきます。
 議員御指摘のように、当時の背景は昭和37年に制定されたものでございますけれども、交通の問題とかいろんな背景の中でそういう宣言をされたということ でございますけれども、その後、芦屋市のほうにおきましては平成13年7月にこの都市宣言を継承するというふうな形と、さらに充実したものとして平成13 年7月に市民の生活安全の推進に関する条例を制定してございます。

 この中で制定しておりますのは、背景が当時あったようでございまして、平成9年の神戸市須磨区で起きました事件、そういった犯罪事件とか、交通事故、さ らに芦屋でいいますと、やはり阪神・淡路大震災等々ございまして、そういった関係で新たにその時代に即した形で条例を制定し、現在のところ、市民の皆さん と一緒になりまして、毎年ですけれども、芦屋市生活安全推進連絡会というのを設けまして、その中で議論いただき、市民の安全のために取り組んでいるという ふうなことで、安全都市宣言につきましてはそういう形で、継承した形で現在は条例の中で取り組んでいるというふうなことでございます。
 以上でございます。

○議長(畑中俊彦君) 竹内市民生活部長。

◎市民生活部長(竹内惠一君) 市民憲章について、印刷物のすべてに、あるいは庁内の掲示について進めていくことはどうかということにつきましては、それ ぞれのカウンターなんかでも、場所的にそこの必要な資料も張ってるところもございますんで、できるだけそういうことができないかという取り組みは進めてま いりたいと考えております。

 それと、推進協議会の設置につきましては、もともと市民憲章というのは一般市民の方がそれぞれの年齢とか経験とか立場とか、そういう部分でまちづくりに 積極的には参加できなかった。そういう中で市民憲章の制定作業等したりとか、親しみやすい、そういう目的に向かって芦屋市をよくしていこうというような形 で市民憲章というのはつくられてる。

 今は、結構市民参画が進んできてるんで、基本的には本市の場合、国際文化住宅都市でございますとか市民憲章というのは、それぞれの考え方の土台に立ってるものというふうに考えますので、改めて推進協議会を持つということは考えておりません。
 以上でございます。

○議長(畑中俊彦君) 行政経営担当部長。

◎行政経営担当部長(青田悟朗君) 芦屋市民の歌をホームページに載せるということでございますが、確かに、芦屋市民の歌につきましては歴史のある歌ということで、芦屋市の歴史を知る上でも大変重要なこととは考えております。
 今後も、記念誌等についてはできるだけこの歌についても紹介をさせていただくということは考えておりますけれども、70周年事業のところでも、やはり式典の次第と、それから「わがまち芦屋を振り返る」という劇の中でも流させていただきました。

 現在、ホームページに載せないのかということなんですけれども、市長のほうから答弁させていただきましたように、「このまちが好き」ということを愛唱歌としてやはり定着させたいということもありますので、現在のところ、ホームページの掲載は考えておりません。
 以上でございます。

○議長(畑中俊彦君) 学校教育部長。

◎学校教育部長(丹下秀夫君) 私のほうからは、「わたしたちのまち芦屋」への掲載について再度お答えいたしますが、郷土への愛着心を培っていくことは大切なもので、決して否定するものではございません。

 小学校の学習指導要領の社会の中に、目標として、地域の人々が受け継いできた文化財や年中行事を指導するようにという点を踏まえまして、掲載につきましては、先ほどの教育長の答弁のとおりと考えております。
 ただ、学校の義務として扱うものではございませんが、それぞれの学校の主体性において機会がございましたら、児童生徒に芦屋の歴史を扱うといった点でその歌を紹介したりすることは可能かと考えております。
 以上でございます。

○議長(畑中俊彦君) 中島(健)議員。

◆15番(中島健一君) 先に、安全都市宣言のことを引き続き質問しますが、今の答弁では生活安全都市宣言を条例の中に継承しているというお話があったん ですが、つまり、この安全都市宣言は、今は条例の中でやってることだから、その宣言そのものは残ってるけれども、その趣旨は条例の中に生かしているんだと いうことの理解でよろしいでしょうかね。それだったら、それをきちんとわかりやすく、芦屋市はアピールする必要があるんじゃないかなと思います。

 例えば西宮、お隣ですけれども、西宮はちゃんとそういうふうにしっかりうたってますよ。ホームページでは、この安全都市宣言というのを紹介して、その後 に、安全都市宣言から市民生活の安全の推進に関する条例へと。この安全都市宣言は今は条例の中に趣旨を生かしていますということをきちんと明確にうたって るんですね。これは、市民生活の安全の推進に関する条例をつくったときにやってます、平成12年ですか。ちょうど同じころ、芦屋市もこの条例つくってます よね。

 つまり、芦屋市はこの条例、ほかの条例にもそうなんでしょうけど、その精神は引き継いでるということをきちんとしないと、まだ都市宣言そのものが単独で 生きてるのかなというふうにも誤解する人もいるでしょうし、やっぱりその辺は正確に紹介していく必要があるんじゃないかなと思いますし、市の施策のあり方 にもそういった趣旨を反映させていくことが必要じゃないかなと思いますので、よろしくお願いします。

 市民の歌のほうなんですけれども、愛唱歌として「このまちが好き」を定着させたいという市長の意向はよくわかります。庁舎の中でも、朝、毎回毎回かかっ て、私の頭の中でもメロディーがすごい流れているんですけども、それはそれでいいじゃないですか、愛唱歌として定着させるというのは。

 でも、芦屋市民の歌を忘れられないように働きかけていく責任は私は芦屋市にありますよということを言ってるんですよ。ですから、機会あるごとに取り上げ ていくということも……、取り上げていっていただく、ホームページには取り上げないと言っていますけれども、私、愛唱歌として定着させたいと「このまちが 好き」だと言ってるんだったら、「このまちが好き」と芦屋市民の歌も、こんなのもありますよと、一緒に紹介していってもいいん違いますか。そのぐらいの努 力は必要ですし、芦屋市にとっては大切な、私は歌だと思いますけどね。再度、ホームページにぜひ掲載してください。機会あるごとに歌いましょうよ、みんな で。と私は思いますが、いかがでしょうか。

 教育委員会のほうでは、学校の主体性において教えていただけるようですので、それはそれでいろんな機会を通して紹介していただいたらいいかなと思いますので、よろしくお願いいたします。

 あと、市民の歌、本当に芦屋市が紹介していかなければ忘れられていくんですよ。記念誌とかでもそうですし、いろんな場を通じてこういった歌があります よ、市の歴史紹介を広報紙とかでもやってますけど、市民の歌がつくられたということも書いてないし、そういうささいなことかもしれませんけど、努力を続け ていっていただきたいと思います。

 あと、市民憲章のほうについては、今後、記念誌等では紹介していきたいということなんですけども、やはり、再度、市の印刷物に全部刷るというぐらいの決意を示してください。私はそのようにすることが大切だと本当に思いますので、よろしくお願いします。
 もう何度も言いませんけれども、推進協議会をつくって、芦屋市のまちを市民と一緒につくっていこうという姿勢を示すことが必要じゃないかなというふうに思うんですね。

 今、いろんな委員会がつくられてますよね、推進委員会、協議会、市民団体交えて。そういった団体をまとめていくようなものが私は芦屋市民憲章だと思うん ですよ。市民憲章を進めていくことは、それがすべてにつながっていくと思うんですね。だからこそ、市民憲章推進協議会をつくることがいろんな意味で芦屋市 にプラスになっていくと考えているところです。

 市長の部屋に芦屋市民憲章って掲げてありますか。これ、芦屋市民憲章読本というのが当時つくられてるんですけれども、当時の芦屋市長、渡辺万太郎さん が、私は公的には芦屋市長、私的には一人の芦屋市民です。したがって、市民の総意をもって制定された芦屋市民憲章をだれよりも先に遵守していかなければな らない立場にあると思いますというふうにいろいろ書かれているんですね。やっぱり、市長も同じ気持ちだと思いますので、ぜひ市長室にも市民憲章を掲げてい ただいて、芦屋市に来られる、あるいは接待をされるときなど、こういった市民憲章があるということも紹介していただきたいと思います。
 再度お尋ねしますが、市民憲章をあらゆる場で市庁舎もそうですけれども、機会に取り上げていくということを今後とも続けていっていただきたいと思いますので、よろしくお願いします。

○議長(畑中俊彦君) 市長。

◎市長(山中健君) 中島健一議員の3回目の質問にお答えいたします。
 まず、市民憲章についてでございますが、なぜか市長室に市民憲章の原文がございまして、先ほど御紹介いただきましたそれぞれの項目の説明文も全部入った 分でございまして、当時の起草委員会の広瀬勝代様の代表名で当時の市長あての起草文がありまして、常に私の机の横に置いておる次第でございます。

 まさに、おっしゃるとおり芦屋の憲法のようなものでございますので、この市民憲章は、先ほども申しましたようにあらゆる場面で引用させていただいておりますので、あえて推進協議会まで立ち上げる予定はございません。
 それから、市民の歌でございますが、否定をしているわけじゃ全くございませんで、先人たちがつくられた当時の思いを歌った歌でございまして、大変尊重も いたします。ただ、暗いとは言いませんけれども、非常に重い、校歌ふうの歌でございますので、ちょっと文章的にも現代と合うかなと思います。

 非常に重さ、重厚さということについては大変尊重もいたしますが、ただ、今、議員も御指摘のように、「このまちが好き」が震災後、当時の児童たちの芦屋 に寄せる思いを歌った歌でございますので、これを広めようとしておりますので、機会があればそれぞれまた市民の歌も紹介していきたいと思っております。
 以上でございます。

○議長(畑中俊彦君) 青田行政経営担当部長。

◎行政経営担当部長(青田悟朗君) 先ほどの市民の歌のところで、私、70周年の記念式典の次第のほうに載せたというふうに申し上げましたけども、誤りで、「このまちが好き」のほうを載せておりましたので、訂正させていただきます。
 記念誌等につきましては機会あるたびに、この歌というのはもちろん芦屋の歴史という点では大事にしていきたいと思っておりますので、載せていきたいと思っております。
 それと、劇の中では先ほど申し上げましたように、我がまち芦屋というのを振り返る意味でもバックコーラスで御紹介させていただいております。
 以上です。

○議長(畑中俊彦君) 都市環境部長。

◎都市環境部長(北田恵三君) 議員のほうから、西宮市の御紹介があったんですけれども、今の芦屋の文言ではそぐわないんじゃないかということで、そのあ たり宣言について経緯を含めて訂正してはどうかということでございますけれども、その辺につきましては、宣言文そのものはその時代に即した形で制定されて るものでございますが、そういうものがいまだに残っているという部分につきましては、少し私どものほうでつけ加える形で解説するような形ができないか、一 度検討してまいりたいというふうに思います。

○議長(畑中俊彦君) 以上で、中島健一議員の一般質問を終了いたします。

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