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2004年(平16)11月18日 議会レポのロゴ No.237

私事ですが…

 11月7日早朝に、長く寝たきりだった福岡の父が71歳で息を引き取りました。身近な肉親の死がどういうものか、いまさらながら実感しています。
りんご箱ひとつの生活から(幼少時代よくそう聞かされました)身をおこし、マイホームを建てる夢を実現するため苦労を重ねてきたようです。「きたようです」と言うのも変な話ですが、私は中学を卒業してから高校は寮に、大学は名古屋にと転々とし実家にはほとんどいませんでした。6つ違いの妹もいるのですが、兄妹という実感もあまりないくらいで、実家の両親たちが苦労していたほんとのところがよく知らない、と言うのがあるからです。

 その父が定年間際に東京に配転され、慣れない土地で苦労をし、それを境におかしくなりました。父は行きたくなかったようですが、母の叱咤激励(家を建てる、お金がいるから)でいやいやの単身赴任だったようです。

 単身赴任が原因ではないでしょうが、その頃から物忘れが激しくなり、日常の仕事をすることができなくなって、ようやく単身赴任間際に建てた家に戻ってきました。
 はじめは、母も妹も父のことを物忘れが激しいくらいに思って特に気にしていませんでしたが、そのうちおかしな行動をするようになりました。そして病院にいき、初めてその状況が若年性アルツハイマーによる事がわかりました。

それからが大変でした。徘徊はする、一人で家にいる事ができない、迷子になる、何度も警察のお世話になりました。母は懸命に尽くしたと思います。父がそうなったのは自分のせいだという負い目もあったようです。でも、懸命に尽くすといっても、それには限度があります。疲れ果て、特別養護老人ホームに預けることになりました。ところが当時は、徘徊という手のかかる入所者を嫌がる傾向あり、やっと入所できた先でも、一週間で退所させられました。

やっと見つけた先が、精神病院。わたしも何度か見舞いに行きましたが、それは劣悪な環境でした。
鍵のかかった扉を開けると十畳ほどの畳の部屋が両側にいくつも並び、その中の一室に父もいました。壁や床のにあちこちは汚物があり、衛生状況は極めて悪いものでした。入所者同士の喧嘩もあるようで父も傷ついていることもありました。
何人かの入所者は動き回らないように、ロープで犬か猫のようにつながれてもいました。入所した当時は父も元気でしたが、病院側がやはり手のかかる徘徊の症状を抑えるため薬を多用し、数ヵ月後にはとうとう寝たきりとなってしまい、家に帰ってきました。

 父を寝たきりにしたのは自分のせいだと、また母の嘆きは大変なものでした。それから自宅での本格的な介護がはじまったのです。近隣の人の助けも借りました。福祉の制度も使えるものは利用しました。訪問介護、ショートステイ、福祉器具の貸し出しなどなど。初めてのことでとまどいも数えられないほどありました。

 それから約12年。父は家族に看取られ息を引き取りました。

私は親不孝者です。生活の基盤がこちらにあるからと、できることをしてこなかったのではないか、そう考えてしまいます。そう考えること自体、してこなかったという思いがあるからだと思います。地元にいる妹には頭が上がりません。

 葬儀は熱心な信者である母の願いから、創価学会の友人葬で行われました。本人が一番納得できる方法でするのが一番ですから、宗教にあまり興味のない私は何も言いませんでした。

 ところが、親戚の一人が「なんで坊さんをよばんとか」と、心無いことを言われていました。父の死を嘆き悲しんでいるところに、そんな言葉をよく口に出して言えるものだと思います。結局、通夜の席でもその親戚は母と口争いになり、席をけって帰っていきました。

 宗教とは心の支えであり、人と人とをつなぐものだと思うのですが、宗教の違いによる争いを間近に見て、それもまた考えさせられたところです。

 葬儀も無事すみました。しばらくはばたばたとした日を母は過ごすことでしょう。
それから先、母がぽっかり空いた穴を、しっかり埋められる日常生活に戻れることを願うばかりです。

(市会議員・中島健一)

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