2013年(平25) 1月10日
No.番外
深く己の生を愛すべし
省みて己を知るべし
學を以て生を養うべし
日々真面目あるべし
今年初めての番外編は、岩手県の霊桃寺住職宮田正勝さんの法話をご紹介します。
川柳に次のような句があった。
今日もまた 読みたくない記事を 読まされる
今日もまた 血圧あがる 記事を読む
まったくもう……という落胆とともに、なぜなのか……
という悲嘆が口を撞いて出てくるニュースが多い。
仏教では、世の中が乱れてくる事を「五濁(ごじょく)の世」と表わしている。その中に煩悩濁・衆生濁というのがある。
人々が利己的となり、便利主義を追い求め、自らの欲望のほしいままに行動するがゆえに、他との協調性が失われてしまう。更に、真実語の会話が少なく、雑
音語が独り歩きし、何を信じ、何を目標とするかが見えない世というのである。それ故、生命軽視の殺人や騙し騙されたという事件が起こってくるというのであ
る。
しかし、私たちは一度しかない人生をどう生きるかを考える必要がある。もし
今、「あなたは幸せですか」という問いを受けた時、それに対する反応は、他人の持ち物に対して自分は、という事を判断材料としてしまうのではないか。ま
た、今日は天気が良いですねという会話も、昔は、晴れなら洗濯ができる、布団が干せる。雨なら作物が育つ、おかげさまで……という言葉がその会話の中には
あった。
それが今では、天気予報が良く当たるね、という現実回答が会話なのである。そこには生かされているという感謝のこころはなく、自らが生きているという自己中心的な考えが含まれているのではないか。
会津八一先生は、自らの生命の活かし方を次のように説いています。
深く己の生を愛すべし 省みて己を知るべし
學を以て生を養うべし 日々真面目あるべし
私たちは、親を選ぶ事も家を選ぶ事もできない。親もまた子を選ぶ事はできないのである。まさに偶然な生命の誕生である。そして、その生命が他の生命に
よって支えられているのである。ここに「おかげさま」の心がある。この事実を自覚して生きる時、他を思いやる謙虚さが生まれ、共生きの真の日暮らしが生ま
れてくるのである。
自己の存在を自覚して生きる事が、人生を生きてゆく上で必要不可欠な事なのである。了
続いて、「禅語に学ぶ」禅文化研究所刊より「自分の力を発揮せよ」を紹介します。
丈夫自有衝天気
不向如來行処行
丈夫は自ら衝天の気有り
如来の行処に向かって行ぜず
見込みのある男は、
初めから天を衝くような意気を持っている。
彼はどんな立派な仏の真似もしない。
だいぶ前、テレビで「舷灯」というドラマを見た。女房に先立たれた男が、希望を子供に托す。彼には彼なりの理想があり、息子や娘を自分の理想に向けて育てようとした。しかし、息子は芸能人となって故郷を捨て、娘は外国人と結婚して日本から出ていってしまう。
どんな親でも子供には、自分のできなかったような理想の人生を歩ませたいと願うものだ。それは彼の夢見る高い理想の世界である。ところが子供たちの夢は、そういう親の理想さえも遙かに超えているのである。
子供が親の思うように育ってくれることは、親にとって限りなくうれしいことである。しかし、それは親の喜びであっても、必ずしも子供の理想ではないであろう。残念ながら親というものは子供の大志の前には、涙を飲んで引き下がらなければならないものらしい。
昔の親孝行者は、親の言うことに忠実であった。現代の親孝行は、親を越える勢いを持っているから、親は涙して我が子を未知の世界へ送り出さなければならない。それが現代の親の蒙る試練であるらしい。
有名な芸能人の出世譚を読むと、たいていは親の反対を押しきって家を出てい
る。それは親にとって過酷な試練ではある。しかしそのように大志を抱いて故郷を後にした青年でも、故郷や親を忘れることがないことは、後で分かることだ。
親はその日を待たねばならない。まして意気軒昂な禅の修行者は、仏の歩んだ轍など見向きもしないというのである。了(臨済宗と黄檗宗HP法話と禅語より)
年の初めは、法話などをご紹介していますが、今回は如何だったでしょうか。皆さんの心に触れるものがあり、これからの糧になるものがあれば、本当に嬉しく思うところです。今年が皆さんにとって、幸多き年になる事を願ってやみません。
今年も、市政のために頑張っていく決意です。どうぞ政治活動へのご支援、よろしくお願い致します。
(市会議員・中島健一)
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